人生逆転を目指して!うつ病患者の執筆奮闘記

このブログはうつ病を抱えながらも、執筆を通して成長していくための奮闘を発信していくブログです。

私のうつ病の症状と病状の経緯(その4)

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どうも、つきみ(@saiou227)です。
私のうつ病体験その4です。前回は休職1年が過ぎ、主治医から入院を勧められるという事態に発展したところまでを書きました。
今回は2010年8月くらいの出来事から始まります。

 

そして入院へ

もそも主治医の対応に私はかなり怒り心頭でした。
というのも、そもそものきっかけは主治医が新米医者に勝手に変わって、そしてチクチクと嫌味を言われたからです。
もうどうして怒ったか記憶がないのですが、些細な言い合いをしたと思います。

 

医者「だいぶ回復に時間がかかっているようですけど、どうしましょうかね」
私 「は?どうしましょうって言われても、私はちゃんと療養してますし、分かりません。」

 

みたいなことを言ったら

 

「つきみさんが突然切キレて起りましした。入院させたほうがいいです」

 

と実家に連絡が言ったからです。
そもそも診察室の会話を両親に言うなんて守秘義務ってないのか?!って思いました。

 

とはいうものの、両親はこんな電話を受けて「こりゃまずい!!」と心底心配し、急遽上京して精神科病棟への入院手続きを始めることになりました。親には申し訳ないことをしました。

私が通っていたのは都内のメンタルクリニックだったのですが、そこでは入院できる環境が整っていなかったので埼玉にある病院に紹介状を書いてもらい行くことにしました。


この当時の症状としては絶不調で


 ・謎の腹痛が続きご飯が食べれない
 ・視点が定まらい
 ・ものがよく見えない
 ・陽の光やテレビの光が眩しくて暗闇に居たくなる
 ・物音が耳に付き、静かな場所に行きたくなる
 ・電車に飛び込みたくなる
 ・電車に乗ると事故にあいそうで落ち着かない、閉鎖空間が怖くて手汗がヤバイ
 ・刃物を見るのが怖い(自分に刺さってきそうだし、自殺やリストカットしそうでした)

という有様でした。
体重も4キロ近く落ち、まっとうな生活ができない状況でした。それでも一人で何とか生活いていたのはある意味奇跡だったかもしれません。

 

さて、父の付き添いの元、入院先の病院に行きました。行くときには病院までの専用バスがあったのですが、同じような病気の人たちが続々と乗っていきます。

目は死んだような目をして、どこかボーとしていたり、髪はぼさぼさで暗い表情の人ばかりで、私もこんな感じなのかなとちょっとショックを受けたのを覚えています。

 

病院はホテルのようにきれいで「あぁ、ここでの生活も悪くないかも」と思えました。主治医の紹介状を渡し、いよいよ面談です。


そこではこれまでの人生の経緯、家族構成、趣味、病状について、現在困っていること、何故入院したいのか。。等が聞かれおよそ30分くらい面談していました。


結論としては…受け入れ拒否されました!!

え…わざわざ紹介状を持って埼玉まで来たのに!?なぜ!?(?_?)

 

「ここはうつ病患者の為の施設です。つきみさんは双極性障害Ⅱ型だと思われますので、ウチでは対応できません。多分つきみさん自身、入院を機に色んなことをしたいと思っているのではないでしょうか?」

 

図星でした。


うつ病の人は基本的に心のエネルギーが切れている状態です。だから休養が一番の薬になります。
特に私が行こうとしていた病院はうつ病だけど家に居てはエネルギーチャージができない人(主婦の為どうしても家事をしなくちゃならない人がゆっくり休むためなど諸事情で休めない人の為雄施設)が対象だったため、私のような双極性障害の人間には対応していなかったのです。

そもそも入院先を紹介したのは主治医なので、「そんなことあるのかよ!!」と医者への不信感が更に募りました。

 

実家での療養生活へ

その後、ある意味失意のうちに実家での療養生活が始まりました。

 

実家に戻ったとき、あまりのやつれ具合と頬がこけ、目だけがぎょろぎょろとした私の変貌ぶりに母はかなり驚いたようです。
(自分では気づかなかったです。)
そしてそこから実家で療養することになりました。

・栄養不足のためだと思うのですが、視力が急激に悪くなる。
・痩せすぎたため、筋力が衰え起きてられなくなる。

(腹筋もなくなり座っていられなくなりました)

スマホを持つのも重くて持てなくなった、

・パソコンのボタンも重くてタイピングさえもできなくなった
・文字を持つ手も震え、文字が書けませんでした。

 

 

という状況で、まずは栄養を取って体重を増やすことから始めました。

一日5食。朝、昼、おやつにバナナと焼きおにぎり、夕飯、夜に栄養補助食品とおにぎりを食べていました。


その時の薬はエビリファイを処方されたのですが、アカシジアの症状のほか手の震えなんかもありました。しかも足が動かなくなりまともに歩けなくなりました。

 

食事もご飯の匂いがダメで食べれませんでした。食べても吐いてしまいました。
次第に生きる気力がなくなり、私は寝たきりになりました。
今考えると体調的にはこの時期が一番つらかったです。

 

ご飯は食べれませんでしたが、父が作ってくれた手作りパンは食べれたので、父はよく作ってくれました。

少し体が起こせるようになると、なるべく母は外に出るように散歩に誘うようになりました。最初は庭を何往復か。そのうち近所の公園に桜を見に。

そのお陰で半年後には何とかまともに動けるようになりました。

 

今思うと両親に感謝の念しかありません。

その間薬はというとエビリファイを飲んでいましたが、アカシジアの症状がだたため三か月ほどで服用は中止となり、次はリーマスを処方。

ですがこれも手の大きなふるえ、吐き気、めまい、言葉のもつれ、といった副作用が強く出て、2か月程度で中止となりました。

暫く使ったのはデプロメールでしたが薬効が得られず、最終的にオランザビンに落ち着きました。

その当時飲んでいたのは
 ・オランザビン
 ・タスモリン
 ・ミオナール
 ・アモキサン
 ・ドグマチール
 ・レンドルミン
でした。これはかなり長い間お付き合いしていたお薬になります。
このフォーメーションが最も私に合った内容でした。

体調も良くなり、日常生活ができるまで復帰できました。
そして起こったのは東日本大震災でした。
                                                                 (もうちょっとだけ)続く