人生逆転を目指して!うつ病患者の執筆奮闘記

このブログはうつ病を抱えながらも、執筆を通して成長していくための奮闘を発信していくブログです。

私のうつ病の症状と病状の経緯(とりあえず最終話)

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前回は2010年秋~冬にかけての出来事を書きました。入院するかどうかという事から自宅療養についてを書きました。
今回は最終話です。
色々はしょったりしている部分はありますが、同じ病気を抱える人に共感いただけると嬉しいです。

 

東日本大震災


さて、2011年3月11日。体調は改善傾向にあり、日常生活は送れるようになりました。
体重はオランザビンの副作用でブクブクと太り、元気なころの体重→-4kg→+10kgと推移しました。
そんな中お昼に外食して帰宅後、少しゆっくり昼寝をしていた時でした。

 

あの東日本大震災が起こりました。

 

この辺の苦労話も色々あるのですが、そこは割愛させていただきます。
が、この出来事は私の転機になりました。

 

人は簡単に死んでしまう。日常は簡単に崩壊してしまう。
だからこそ自分ができること、したい事は何なのか色々考えました。
この辺の考えは今も私の根幹にありますが、やはりここも割愛します。

 

私は仙台の実家で被災しました。物凄い揺れ、止まるライフライン、無くなる食料、止まった暖房
食料は1時間待っても買えなかったりしました。水も2時間待ってもペットボトル1本分ももらえませんでした。

そんな被災生活で母の精神が参ってしまい、私に対する八つ当たりが凄かったです。

その時自分がいかに家族に甘えていたのか。私がしっかりしないと母を支えてあげれないと思うようなりました。

「このままではダメだ。まずは復職して、きちんと生活を立て直さねば。」

「社会から隔離されているこの現状を打破しなくては」

そうしてようやく私のスイッチが入りました。
直ぐにはまだ体は動かなくなりましたが、ウォーキングをして、一日8000歩歩くようにしました。
また会社からの指示で、毎日の行動したタイムスケジュールと気分のバロメーターを記載して提出するようになりました。

不思議なことに今まで鬱で落ち込んでいた症状は一気に良くなり、逆にやりすぎるくらい色々できるようになりました。


今まで細々とやっていた趣味で作っていたゲーム制作も集中して作業しました。
毎日が楽しく、明日はどうしようかなぁなんて思ったりもしました。

そして…暫くするとまた鬱状態に陥る。


個人的にはこの「色々やれるぜひゃーーーーー」っていう症状の方が、今までバリバリ働いていた時の頃に戻った気がして良かったのですが、医者からは「8割の活動量にしなさい」とさんざん言われました。

 

でも私は「調子がいいのになんで活動量をセーブしなくてはならないんだろう」と不満でした。

 

そうして躁状態鬱状態躁状態鬱状態を繰り返しました。
でも段々に「あ…私双極性障害Ⅱ型なんだ…」と受け入れ、今では上手く病気と付き合って行こうという心積もりができるようになりました。


そして病気と共に

それから4か月。
主治医の出した復職プログラムを実践し、2011年7月、無事復職をしました。
職場の理解もあり、順調に仕事をこなせるようにまで回復しました。

 

しかしながら細かな不調は続き、同じ薬を飲んでいてもやはり量を多くしたり、減薬したりを繰り返しています。

落ち込むときはもう死にたい、消えたい、逃げたいとなります。
多分些細なことでも傷つきやすくて、豆腐メンタルが嫌になりますが、それも病気のせいだと思います。

元気な時には「私寝なくても大丈夫!」「あれもしたい、これもしたい」アイディアが次々と出ます。


双極性障害は一生付き合っていく病気なわけですが、これも個性と思っています。
いい面も悪い面もある。そして私という人間を形作る一つの要素です。

何だかんだあって、私は今また2度目の休職をしています。
これからの生きる道については願望があり、その夢に向かって進もうとしています。

その辺もまた別の記事に書ければと思っています。



 

私のうつ病の症状と病状の経緯(その4)

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どうも、つきみ(@saiou227)です。
私のうつ病体験その4です。前回は休職1年が過ぎ、主治医から入院を勧められるという事態に発展したところまでを書きました。
今回は2010年8月くらいの出来事から始まります。

 

そして入院へ

もそも主治医の対応に私はかなり怒り心頭でした。
というのも、そもそものきっかけは主治医が新米医者に勝手に変わって、そしてチクチクと嫌味を言われたからです。
もうどうして怒ったか記憶がないのですが、些細な言い合いをしたと思います。

 

医者「だいぶ回復に時間がかかっているようですけど、どうしましょうかね」
私 「は?どうしましょうって言われても、私はちゃんと療養してますし、分かりません。」

 

みたいなことを言ったら

 

「つきみさんが突然切キレて起りましした。入院させたほうがいいです」

 

と実家に連絡が言ったからです。
そもそも診察室の会話を両親に言うなんて守秘義務ってないのか?!って思いました。

 

とはいうものの、両親はこんな電話を受けて「こりゃまずい!!」と心底心配し、急遽上京して精神科病棟への入院手続きを始めることになりました。親には申し訳ないことをしました。

私が通っていたのは都内のメンタルクリニックだったのですが、そこでは入院できる環境が整っていなかったので埼玉にある病院に紹介状を書いてもらい行くことにしました。


この当時の症状としては絶不調で


 ・謎の腹痛が続きご飯が食べれない
 ・視点が定まらい
 ・ものがよく見えない
 ・陽の光やテレビの光が眩しくて暗闇に居たくなる
 ・物音が耳に付き、静かな場所に行きたくなる
 ・電車に飛び込みたくなる
 ・電車に乗ると事故にあいそうで落ち着かない、閉鎖空間が怖くて手汗がヤバイ
 ・刃物を見るのが怖い(自分に刺さってきそうだし、自殺やリストカットしそうでした)

という有様でした。
体重も4キロ近く落ち、まっとうな生活ができない状況でした。それでも一人で何とか生活いていたのはある意味奇跡だったかもしれません。

 

さて、父の付き添いの元、入院先の病院に行きました。行くときには病院までの専用バスがあったのですが、同じような病気の人たちが続々と乗っていきます。

目は死んだような目をして、どこかボーとしていたり、髪はぼさぼさで暗い表情の人ばかりで、私もこんな感じなのかなとちょっとショックを受けたのを覚えています。

 

病院はホテルのようにきれいで「あぁ、ここでの生活も悪くないかも」と思えました。主治医の紹介状を渡し、いよいよ面談です。


そこではこれまでの人生の経緯、家族構成、趣味、病状について、現在困っていること、何故入院したいのか。。等が聞かれおよそ30分くらい面談していました。


結論としては…受け入れ拒否されました!!

え…わざわざ紹介状を持って埼玉まで来たのに!?なぜ!?(?_?)

 

「ここはうつ病患者の為の施設です。つきみさんは双極性障害Ⅱ型だと思われますので、ウチでは対応できません。多分つきみさん自身、入院を機に色んなことをしたいと思っているのではないでしょうか?」

 

図星でした。


うつ病の人は基本的に心のエネルギーが切れている状態です。だから休養が一番の薬になります。
特に私が行こうとしていた病院はうつ病だけど家に居てはエネルギーチャージができない人(主婦の為どうしても家事をしなくちゃならない人がゆっくり休むためなど諸事情で休めない人の為雄施設)が対象だったため、私のような双極性障害の人間には対応していなかったのです。

そもそも入院先を紹介したのは主治医なので、「そんなことあるのかよ!!」と医者への不信感が更に募りました。

 

実家での療養生活へ

その後、ある意味失意のうちに実家での療養生活が始まりました。

 

実家に戻ったとき、あまりのやつれ具合と頬がこけ、目だけがぎょろぎょろとした私の変貌ぶりに母はかなり驚いたようです。
(自分では気づかなかったです。)
そしてそこから実家で療養することになりました。

・栄養不足のためだと思うのですが、視力が急激に悪くなる。
・痩せすぎたため、筋力が衰え起きてられなくなる。

(腹筋もなくなり座っていられなくなりました)

スマホを持つのも重くて持てなくなった、

・パソコンのボタンも重くてタイピングさえもできなくなった
・文字を持つ手も震え、文字が書けませんでした。

 

 

という状況で、まずは栄養を取って体重を増やすことから始めました。

一日5食。朝、昼、おやつにバナナと焼きおにぎり、夕飯、夜に栄養補助食品とおにぎりを食べていました。


その時の薬はエビリファイを処方されたのですが、アカシジアの症状のほか手の震えなんかもありました。しかも足が動かなくなりまともに歩けなくなりました。

 

食事もご飯の匂いがダメで食べれませんでした。食べても吐いてしまいました。
次第に生きる気力がなくなり、私は寝たきりになりました。
今考えると体調的にはこの時期が一番つらかったです。

 

ご飯は食べれませんでしたが、父が作ってくれた手作りパンは食べれたので、父はよく作ってくれました。

少し体が起こせるようになると、なるべく母は外に出るように散歩に誘うようになりました。最初は庭を何往復か。そのうち近所の公園に桜を見に。

そのお陰で半年後には何とかまともに動けるようになりました。

 

今思うと両親に感謝の念しかありません。

その間薬はというとエビリファイを飲んでいましたが、アカシジアの症状がだたため三か月ほどで服用は中止となり、次はリーマスを処方。

ですがこれも手の大きなふるえ、吐き気、めまい、言葉のもつれ、といった副作用が強く出て、2か月程度で中止となりました。

暫く使ったのはデプロメールでしたが薬効が得られず、最終的にオランザビンに落ち着きました。

その当時飲んでいたのは
 ・オランザビン
 ・タスモリン
 ・ミオナール
 ・アモキサン
 ・ドグマチール
 ・レンドルミン
でした。これはかなり長い間お付き合いしていたお薬になります。
このフォーメーションが最も私に合った内容でした。

体調も良くなり、日常生活ができるまで復帰できました。
そして起こったのは東日本大震災でした。
                                                                 (もうちょっとだけ)続く

私のうつ病の症状と病状の経緯(その3)

 

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どうも、つきみ(@saiou227)です。
私のうつ病体験その3です。前回は休職を決意したところでした。今回は辛かった療養生活メインに書きました。大体2009年7月~2010年7月の内容です

 

そして休職に

何度か上司との面談を繰り返し、


「うつ?そんな風に見えないんだけどなぁ」

と何度も言われました。

確かに世の中の鬱って「暗い」「死にそう」「病気的」「表情が無い」などの症状が見えている方も多いと思います。
ですが私は社会人だからという最後の糸で自分を奮いたたせ、病気に見えないように心がけていました。。
死ぬほどつらくても

「私は大丈夫ですー。ちゃんとした社会人ですー迷惑なんてかけませんよー」

というようないい子ちゃんを演じていたのです。

ただ、本当に体はボロボロで、精神的にも乗車率120%の満員電車に乗ることが苦痛で仕方ありませんでした。
仕事の重圧もありました。
そして主治医の診断書が決め手になり、私は無事休職することができました。

休職が始まった日。私は「あぁ…仕事行かなくていいだ」とほっとしたのを覚えています。

 

休職から半年くらいは月一で実家に帰りつつも一人暮しをしていました。
何をしていたのかは覚えていません。
ただ、借り上げ社宅だった狭く寒く暗い部屋で一人ベッドに寝て、自堕落な生活をしたような気がします。

休職前は、折角時間ができるからあんなこともしたい!こんなこともしたい!旅行に行きたい!など色々なことをしたいと思っていたのですが、いざ休職するとベッドから動けなくて、ひたすら寝ていました。

 

その当時の上司はうつ病の事があまりよく分かっていないのか、度々「ご飯食べよう!」とか「みんな心配しているからとりあえず会えないか?」とか「本当にうつ病なのか気になるから病院について行ったもいいか?」など言われました。
心配してくれる気持ちもありがたかったですが、正直会社の事は思い出したくないのでそっとしておいてほしかったです。が…まぁ、会社に勤めている以上はそうもいかなかったのかもしれません。

 

体調はというと休職後も全くと言って回復しませんでした。
一人で暮らしていたせいか、落ち込むことも多く、突然死にたくなって泣きながら「いのちの電話」」に電話を掛けたこともありました。
(ちなみにいのちの電話には何度も描けたことがあるのですが、混雑していて一度もつながったことはありません。もう少し改善されないものかなぁと思います。話を聞いてもらうだけでも気持ちが落ち着くこともあるし、自殺を思いとどまることもあると思います)

 

病名は自律神経失調症→仮面うつ病うつ病と変化しました。ここで初めて抗うつ剤の服用を本格的に始めました。
ちょっと昔の話(2009年くらい)なので何を飲んだかよく覚えていないのですが、

 ・アモキサン

 ・ソラナックス

 ・エペリゾン

 ・ドグマチール

 ・加味逍遙散(ツムラ

 ・ハルシオン

 ・デパス

あたりを飲んでいたような気がします。

 

ですが症状は一向によくならず、目がチカチカして日差しの下は歩けなくなりました。
また、体が常にふわふわして始終乗り物酔いをしている感覚でした。

 

漢方(漢方薬局の特別調合の物)、投薬、プラセンタ注射、カウンセリング。
いいと言われるものは全部やっていたので月の医療費が3万以上かかっていました。
安月給の身としてはかなり痛い出費ですが早く元の状態に戻りたい、戻れると信じて必死だったのを覚えています。

 

あれよあれよという間に半年の休職が過ぎそれでも頭痛、肩こり、吐き気、眩暈、精神的落ち込みが続き、出口のないトンネルにいるような感覚に何度も襲われ孤独の中治療を続けている感じでした。

 

引っ越しを決意

そして、冬が訪れようとした頃、あまりにも住環境が悪いので温かくてまともな生活が送れるように引っ越しを決意しました。

そう言う意味では半年して少し動けるようになったのかもしれません。
意を決して引っ越したところ、活動的になりました。
投薬についても漢方とプラセンタ治療をやめ、医師の面談と投薬に絞ることになりました。

この辺りで躁鬱が出てきました。
なんでもやれる!という調子のよい時期と、やっぱり無理だ…死にたい…という日が訪れましたが、それは病状が良くなっているのだと当時の私は思っていたからです。

 

現に活動的に動けると気があり、執筆活動やイラスト作成、ゲーム作成に、HP作成、当時はやっていたニコニコ生放送、ゲーム実況など色々活動していた時期でした。

特にニコ生はリハビリのつもりでやっていました。一日中誰とも話さない日常が辛くて気分転換でした。
自炊もできるようになり、間もなく復帰もできるかなぁと思ったりもしていました。

 

ですがそんなに簡単に事は進みません。今度はイライラすることが多くなり、うまくいかないことがあると怒鳴ったり、泣きたくなったり、フォークで自分の腕を刺したこともありました。
自傷行為をしたいと思うこともありましたが、そこはぐっとこらえて過ごしたことを今でも覚えています。

 

そして、ある日の事。2010年5月、急な腹痛に教われ七転八倒しました。病院に行っても原因は不明。大きな大学病院を紹介され言ったところ過敏性腸症候群ではないかと言われ、薬も処方されないまま返されました。

その時にはこの痛みがずっと続くのかと絶望し、泣いて泣いて泣きました。
とはいうものの午前中は腹痛に教われ起きれず1週間食事もせず寝たきりになりました。

 

そのときマンションの隣にあった公園からは子供たちの楽しい声を聞き。燦々と降り注ぐ街路樹の青々とした緑を苦しい中見つめていました。
「私…これからどうなるんだろう。一生こうして寝たきりになるのかなぁ」
絶望しかなかったです。

休職からあっという間に1年が過ぎ、とうとう主治医から
閉鎖病棟に入院した方がいいです」
と言われ、勝手に実家にまで電話されていました。

それを聞いた両親は寝耳に水だったようです。鬱なのは知っていましたがそんなに病状が悪いと思っていなかったようです。
両親の心配もあり、私は入院をすることにしました。

                                                                           続く…



   

私のうつ病の症状と病状の経緯(その2)

 どうも、つきみ(@saiou227)です。

私のうつ病体験その2です。前回2件目の心療内科を訪れた私でした。今回はその後について書きました。

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診療内科の診察内容

2件目の心療内科では自律神経失調症と診断され、プラセンタ(胎盤から抽出した成分を含有する処方箋医薬品またはサプリメントである)療法を受けました。
そのお金1回3000円×2回/週となり、ビタミンCや安定剤を入れるともっと高くなりました。

 

そこの診療としてはプラセンタを点滴されて、1時間くらい瞑想(安静に寝ること)をして1回の診察が終わります。
診察といっても薄暗い部屋で3分くらい簡単な会話をしておしまい。
一応、ソラナックスを処方されてそれを飲んでいました。

 

悪化する症状

ですがうつの症状は日に日に悪化しました。
でも何とか仕事は続けたかったです。一回休職してしまったら、職場に申し訳ないというよりキャリアに傷がつくという保身の方が強かったです。

私は女性総合職として初めて採用された人間でした。
5000人いる会社でしたが、女性の割合が極端に低く、私の所属する情報システム部では総合職(しかも専門職採用)の女性はいませんでした。
だから周囲から好奇の目で見られていたし、一目置かれた存在でしだったので変なプライドがあったのだと思います。
(ちなみに会社のHPに注目社員として密着取材の内容が掲載されていましたw)

 

そうこうしているうちに寝付けなくなりました。
夜中24時に寝て朝3時に起きる。全然眠れなくて、寝なくても平気になっていきました。
夜な夜なツイッターをしたり、趣味の小説を執筆したりして、どんどん目が冴えていきます。
でもその頃の私は「わああああ寝なくても全然平気!色々なんかしよう!」みたいにスーパーマンのように思えていました。
これが鬱の症状であるとも気づかなかったのです。

 

仕事ができなくなる

別記事で書こうと思いますが、その時パワハラを受けており、それでも自分なら耐えられるという自己暗示をしていたのですが、体調不良が続くようになりました。


「期待されて配属された仕事だからその期待を裏切ることはできない。」

 

変なプレッシャーがあって頑張っていたのですが周囲からすると日に日に弱っていく様子を見て流石に上司もヤバイと感じたようで、また異動になりました。

ですが一度病み始めた心身は良くなるどころか悪化の一途をたどりました。

 

 頭痛、猛烈な肩こり、不安感、立ち眩み、眩暈、動機、恐怖感、異常な発汗。

 

抗不安薬ソラナックスの服用量は半錠の服用が1錠に、それが2錠…3錠…と増えていきました。

それでも体がふわふわとなり、自分がどこに居るのか認識ができない感じでした。
そしてある日、PCの前に座ったままパソコンのキーボードが叩けないくらい頭が真っ白になりました。
仕事しなくちゃ…でも、何をしたらいいのか頭が働かなくなったのです。

 

そして2件目の心療内科の扉を叩いてから約1年。
私は休職を決意しました。

 

 

                                 続く…

 

 

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私のうつ病の症状と病状の経緯(その1)

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どうも、つきみ(@saiou227)です。
今回は私のうつ病を発症した経緯と、症状について徒然なるままに綴っていきます。
 
まず、私が初めてうつ病を発症したのは今から10年前になります。
 
症状としては
 
 何となく体が重い。気分が晴れない。上司と話すとドキドキと動悸がする。緊張で手に汗をかく…
 
という些細なものでした。
 ですが仕事に集中できなくなって以前のパフォーマンスで仕事ができなくなりました。そこでいろいろと症状をネットで検索して
 
 「うつ病かも…うつ病って心の風邪というくらいだから早期に分かっていれば重篤化しなくて済むかも」
 
と思い心療内科に行きました。
 診断結果としては「抑うつ状態だけど、うつ病ではない」と言われ、軽い安定剤を処方しれました。
 
が!!全然症状が改善されない。
 
 症状は悪化し、眩暈はして電車に乗るのも一苦労。ふわふわした状態が続き、このままでは仕事に影響が出ると思い漢方に頼りました。
 まずは漢方薬局で相談して加味逍遙散をベースにしたオリジナルミックスの漢方を処方されました。
 でも半年飲んでも全然症状が改善されません。
 お金ばかりがかかってしまい、1年くらいで辞めました。

(漢方は高いですよね…。月1万以上かかっていました。それでも治るなら・・・と思い続けていたわけですが…)
 
 そうこうしているうちに、会社の仕事が変わったり、上司のパワハラなどがあり、環境変化もあり、どんどん症状が悪化しました。

 

「自分はダメな人間だ。なんでこんなに仕事ができないんだろう。私なんて死んだほうがいい人間なんだ…」

などと精神状態がどん底に陥りました。

 「このまま電車に飛び込めば楽になるんじゃ」


なんて思ったことも度々でした。
  
このままでは私は死んでしまうかもしれない。
そう思って初回に訪れた精神科と違う心療内科を探し、その扉を叩きました。

ここまでで2年かかりました。辛く苦しい闘病生活の始まりでした。

 

 

                             続く…


  


うつ病を抱えながら物書きを目指す

初めまして。つきみ(@saiou227)です。

現在休職中の30代システムエンジニアです。

これといって手に職もないし、体調にも波があるのですが、日々成長したいと思って色々あがいています。

 

このブログでは

 

・8年付き合っているうつ病についての話題

・スキルのないシステムエンジニアとしての話題

・現在目指しているフリーランスについての話題

・基本的な執筆に関する話題

 

について語っていく場にしたいと思います。

 

堅苦しくなく、日々思っていることなども徒然なるままに書いていきますので、成長の様子を温かく見守っていただけると嬉しいです。

 

ちなみに現在は応援してくれる人を集めたくてツイッターフォロワー1000人を目指して奮闘中です。

 

よかったらツイッターでも色々発信していますので見てもらえると嬉しいです。

ではこれからよろしくお願いいたします。